Shin Takamatsu Architect and Associates Co.,Ltd. 株式会社高松伸建築設計事務所

  • Ending Is Beginning

旅とはとんと御無沙汰である。というか、そもそも旅という旅をしたことがない。マラケシュのスーク(市場)で斧を持った子供達に追いかけられたり、テオティワカン遺跡のてっぺんで蛇に襲われたり、バングラデシュで人力車に轢かれたり、モニュメントバレーの砂漠ではナバホ族の婆さんに呪いをかけられたりしたけれど、いつもなにがしか仕事の道中で、旅の哀愁とかロマンとはおよそかけはなれていたものだから、おそらくそんな道ゆきなど旅とは呼ばせてもらえまい。だから、正確には旅とはとんと無縁である…ということになる。で、窮余の一策、あらためて思い出を旅することにした。初めての渡航の思い出を。25年前のことである。当時34才。恥ずかしながら、それまで日本を一歩たりとも出たことがない。かりにも建築の道を志す身であるにもかかわらず、いやいや学生達にギリシャやローマの建築についていっぱしの講釈をたれているつもりの身であるにもかかわらず…である。恥の上塗りの仕上げに、学生達も道連れにすることにした。行先は欧州。この際必見の西洋建築全てをこの目に焼きつけんとの意気込みである。サベナ・ベルギーなどという聞いたこともない航空会社の、機体の四分の三は貨物という激安フライトで、機内のアルコールを飲み尽くしたあげく、まずは中継地のミラノに降り立った。深夜、外は雪である。次のフライトまで6時間。で、ふと思い出した。そうだ、この街にはあのドゥオモがある。代表的なイタリアン・ゴシックの大聖堂である。建築学徒としてはひとまず見ておくか…てなノリでタクシーを駆った。雪におぼろの外灯の列を抜けるや、いきなりそれが現れた。まるで、降りしきる雪に、重力の群れが一瞬垂直に氷結したかの如きそれが。まるで、神が、美という冷たい鑿で一気に刻んだかの如きそれが。「建築は凍れる音楽である」と言ったのは確かゲーテ。その時以後の旅の記憶は私には無い。私の、始まったばかりの初めての旅は、その時に終わった。そして、その終わりによって、私の長い長い建築の旅は始まった。 『TRANSIT』2009第5号.講談社.(2009)

一覧に戻る